各区の紹介


  
三輪の10区の移り変わりを紹介します!

<本郷区>
 近世以前の本郷は三輪の本村として早くから人々が定着し重要な位置にあった。
 明治初年頃の家は、畳のある家は少なく板の間や、ねこ敷の部屋が普通だった。また、養蚕が盛んになり、桑を植えるものが増えた昭和12年、日中戦争の出征兵士の壮行会は美和神社でおこなわれ、村民あげてその武運長久を祈り長野駅まで見送った。
 終戦後の本郷は、急速に都市化が進み、三輪幹線をはさんで住宅が並び、市役所の三輪連絡所、三輪公民館、各種病院、幼稚園、アパートなどが建設された。

<相ノ木東区・相ノ木西区>
 「相ノ木」の地名の由来は、現在の市立長野女子短期大学・同高等学校の地に、戦国時代、武田氏の家臣であった相木市兵衛の別館があったと伝えられていることに由来するのではないかという説がある
 相ノ木の地には、北国街道が開かれた1610年ころから街道沿いにしだいに村人が住み着いて枝村をつくり、さらに大きくなった相ノ木の村が西組と東組の二つの生活共同体に分かれた

<横山区>
 横山の地名の起源は、善光寺の東にある丘陵をかつては横山と呼んでいたことに由来する。その横山に中世に横山城が築かれていて、その城下にあるムラも横山と呼ぶようになったと考えられる。
 横山のムラのいまの城山寄りの南西から東北に走っている北国街道は、日本を縦断する重要街道で、大名の参勤交代の通路であり生活物資の交流など往来は頻繁であった。また、善光寺に近接していたことから、近代にかけて農業を主体に仏壇製造業・荷車製造業など善光寺や街道往来の人々に関係する商業も発達している。このように善光寺や街道往来の人々によって住民の経済生活も潤されてきたと考えられる。
1847年に起きた善光寺大地震にさいしては、家屋全壊、火災による類焼という大被害を出したが、その後の復興は目覚ましく、近代にかけて広い格子戸の家、大きく高い屋根の土蔵が多くなり、古い街道の街並みの面影を残して城下町のような雰囲気があった。
 昭和56年に開通した長野大通りは、北国街道や国道18号線などを結ぶ主要幹線道路となっていて、車の往来が激しくなり騒音被害・交通事故多発・家屋敷への車の飛込みなどに悩まされる状態となっている。かつての城下町の雰囲気を残す静かな町の面影はなくなっているが、それだけにまた一面活気のある町となっている

<上宇木区・下宇木区>
 明治9年、上宇木、下宇木の両村が合併し宇木村となる。その後明治22年、三輪、宇木、古野、上松、中越の五ヵ村が合併し三輪村になる。
宇木地域は古来から近代にいたっても浅川の洪水の被害に苦しんできた。村人は水害にあいながらも荒地の畑作や水田耕作をつづけ、現代の町の基礎を築いてきたのである。
 上宇木地域では、戦後道路の新設、整備等の進展とあいまって公民館の新設、その他住宅地の開発などが進められた。昭和の初めまで戸数僅か24戸前後の寒村が、昭和40年には100戸、昭和361戸という大きな町となって現在に至っている。

<﨤目区>
 﨤目村の名がはじめて史料にみえるのは、1602年関ヶ原の戦いの直後に領主として北信濃四郡を治めていた森忠政の検地があった年である昔から水田に比べて畑草地が多く暮らしはらくではなかったところへ、たびたび襲う水害にも費用を捻出せねばならず、台所事情は極めて苦しかったものと想像される。一汁一菜そして木綿・麻衣の着用等、日常はきわめて質素なものであり、それは武士の帰農者が多く、中世以来の質実剛健の気風が代々受け継がれてきたからであろう。
 麻は古代信濃の名産として知られているが、浅川乱流の草生地では、当然麻も栽培されたと思われるが、しだいに開墾が進むと麻の流出は山間部に移り江戸時代になると木綿の流出が主流になる。明治維新後、作付統制の撤廃後は畑作地帯の多い﨤目は桑に転換している。
 戦後、神武景気と岩戸景気をへて、﨤目区は長野市のベッドタウンとなり、目覚ましい人口増加をとげている。このため往時は村内を覆いつくした桑園も早くに消えて、わずかに残された水田も時とともに消えていった。

<泉町区>
 泉町区は、もともと﨤目地区であったが、昭和30年4月﨤目地区から分かれた新興の団地である。町名のおこりは、隣区桐原に七清水と言われる湧水があり、その一つに牛爪清水といわれる泉が近くにあったことから泉町と名づけられた

<四ツ石区>

 終戦直後の住宅難解消のため柳町団地は、周囲にまだ田圃が残る柳町に、昭和25年にA号棟が建設されたのを皮切りに北へ順次B・C号棟が建設された。その他、民間アパート、マンション、一般持ち家住宅等があり、住民数もいっきょに増加した。地区の面積こそ狭いが、現在約700世帯が居住する。


 
<城東区>
 鐘鋳川の東南方一帯の豊饒な田園地帯に、県営・市営のアパートの建設や県の分譲住宅の建設が始まり、城東地区では昭和30年から県の分譲住宅がつくられ入居が始まった城東という町名は、城山の東にあって朝夕この山を望見でき理想の町に相応しい町名であるということからつけられた。地方自治の原点ともいうべき町づくりがおこなわれた町である。